「得意」から「才能」へ 【澤穂希選手バロンドール受賞で何となく考えたこと】
先日、なでしこジャパンの澤穂希選手がバロンドールを受賞した。これでワールドカップ優勝、MVP、得点王と、おおよそサッカー選手が憧れる賞を総なめにしたことになる。彼女のたぐい稀なる才能と努力が実力となり、運をも引き寄せて(彼女の言葉を借りると「サッカーの神様」を引き寄せて)実を結んだようだ。今後、日本人で彼女の様な才能あふれる選手が出てくるのだろうか。
高校の頃、同じクラスに物凄く頭が良い奴がいて、東大へ行った。大方の人間は得意な科目があるのと同時に不得意な科目もあるものだが、彼は全てが得意科目であった。普段話をしてもどうという事は無いのだが、勉強になるとその回転の速さと記憶力の良さに、こいつにはとても太刀打ちできないと思った。その上面白くないことに、彼は極端なガリ勉ではなかった、と言うより、むしろそれ程勉強をする方ではなかったのだ。僕はそのとき、こういう奴らが将来日本を動かすことになり、僕みたいな凡人は所詮彼らの手のひらでウロウロするだけになるのだろうな、などと漠然と悟ったりした。他にどういう才能が彼にあったかは分からないが、少なくとも全ての科目でペーパーテストがほぼ完璧に出来る、というのは一種の才能であると思う。
僕は小学校の時からいつもクラスで絵が一番上手かった。上手かったと言うのは、自分でもそう思っていたし周りもそういう目で見ていた、と言う事だ。しかしある日、美大志望の友人の画力を見て、自分は絵が上手い中では下手クソの部類である事を初めて知った。ショックだった。その友人は志望通りの美大へ行ったのだが、同じ学校の連中と比較すると自分の才能の無さに嫌気がさした、と言っていた。上には上がいるという事だ。まったく才能の世界は際限が無い。
才能とは夢を見続ける力のこと、自分自身の力を信じられること、情熱を持続できる力の事、などなど、何かの才能がある人はあたかもそれは決して特殊な事ではない、と言わんばかりに才能について余裕で語っている。
たとえば、成功したスポーツ選手はよく「あきらめない心」を力説している。確かに物事を達成するにあたり、あきらめない態度は必要だ。 努力をしていれば自分の中に眠っていた何かが目を覚ますかもしれないし、不可能と思っていた事をしつこく追求して活路を見出す事などはよくある事だ。しかし「あきらめないで努力をすれば夢はかなう」となると、殆どの場合その分野に才能がある人のみが実現可能な言葉となる。人生においてその見極めは重要だ。極端な例を言えば、足が遅い人がどんなに努力をし訓練をしても、100mを10秒切ることは出来ないだろう。妙な平等教育がこの辺りの価値観をおかしくしているが、人は才能において決して平等ではない。
僕はゴルフが大好きでゴルフだったら何時間でも続けられるし、暇な時はたいてい打放しへ行っている。スポーツはやるのはゴルフ、見るのはサッカーと決めているが、実はPGAツアーなども結構見ていてゴルフに対する情熱は人一倍である。しかし、十数年やっていても一向に上手くならない。90を切る切らないでずっと喜んだり落ち込んだりを繰り返している。シングルになる人は割と短期間でなるものだ。当たり前のことだが、情熱や愛情も、才能の十分条件かもしれないが必要条件ではないのだ。
このことを逆に考えると、好きではないけどやれば上手くなるものだってあるかもしれない。その場合は上手くいくからきっと好きになっていくのだろう。例えば僕は子供が苦手だからやろうと思わないが、ひょっとしたら保父さん向いていたかもしれないし、もしかしたらカーリングなどにも才能があったか知れない。
もっともある分野に才能がある人間は、自分にはどのような才能がありどのような才能が欠けているかを知り尽くしていて、それが個人的努力でどうこうできる水準の問題ではないということも理解しているはずだから、このようなタラレバなどはナンセンスかもしれないが。
澤選手がみせたW杯アメリカ戦での同点シュートや、バルセロナのメッシ選手のプレーを見て才能を感じない人はいないと思うが、小さな事でも他人に対し才能を感じる事がある。僕はメモを取るのが苦手で、自分のメモは何を書いてあるのか自分でも分からないほどだが、即興で描いたとは思えないほどキチンとしたメモをとれる人がいる。こういう人は僕からみればメモを取る才能がある人だ。
小さい部分の得意を才能とするなら、メモは駄目だが僕にも結構色々な才能がある。例えば、僕は足の指が異常に器用で、卓上から鉛筆、消しゴム、定規などを落としたとき、わざわざかがまなくとも足の指で何でも拾うことが出来る。つま楊枝すら拾える。さらに、これは皆に驚かれるが、足の指でチン△×を◆△○※することも可能なのだ。(とても恥ずかしくて書けない。)
しかし、そのような事を出来る人は探せば結構いるはずで、足の指を使ってピアノでリストなどを弾けるくらいにならないと「才能がある」と胸を張ることは出来ないだろう。
何だかんだいっても才能とは持って生まれた何かであることは間違いないと思うが、その人固有の得意なものというものは誰にでも存在しているはずで、それを「才能」と胸を張って呼ぶにはその大きさと稀さが必要なのだ。だから、メジャーなもの(絵とか音楽とかスポーツなど)が駄目でも珍しい小さな得意を見出し、その伸びしろを発見できれば、それが才能とよばれるものに変わる可能性は十分あると思う。誰でも小粒な澤選手になれるかも、というわけだ。
ただし、あまり突飛な事に努力をしていると変人に思われるから注意が必要ではあるが…。
【文:珍蔵】
↓クリックお願いしますだ。


高校の頃、同じクラスに物凄く頭が良い奴がいて、東大へ行った。大方の人間は得意な科目があるのと同時に不得意な科目もあるものだが、彼は全てが得意科目であった。普段話をしてもどうという事は無いのだが、勉強になるとその回転の速さと記憶力の良さに、こいつにはとても太刀打ちできないと思った。その上面白くないことに、彼は極端なガリ勉ではなかった、と言うより、むしろそれ程勉強をする方ではなかったのだ。僕はそのとき、こういう奴らが将来日本を動かすことになり、僕みたいな凡人は所詮彼らの手のひらでウロウロするだけになるのだろうな、などと漠然と悟ったりした。他にどういう才能が彼にあったかは分からないが、少なくとも全ての科目でペーパーテストがほぼ完璧に出来る、というのは一種の才能であると思う。
僕は小学校の時からいつもクラスで絵が一番上手かった。上手かったと言うのは、自分でもそう思っていたし周りもそういう目で見ていた、と言う事だ。しかしある日、美大志望の友人の画力を見て、自分は絵が上手い中では下手クソの部類である事を初めて知った。ショックだった。その友人は志望通りの美大へ行ったのだが、同じ学校の連中と比較すると自分の才能の無さに嫌気がさした、と言っていた。上には上がいるという事だ。まったく才能の世界は際限が無い。
才能とは夢を見続ける力のこと、自分自身の力を信じられること、情熱を持続できる力の事、などなど、何かの才能がある人はあたかもそれは決して特殊な事ではない、と言わんばかりに才能について余裕で語っている。
たとえば、成功したスポーツ選手はよく「あきらめない心」を力説している。確かに物事を達成するにあたり、あきらめない態度は必要だ。 努力をしていれば自分の中に眠っていた何かが目を覚ますかもしれないし、不可能と思っていた事をしつこく追求して活路を見出す事などはよくある事だ。しかし「あきらめないで努力をすれば夢はかなう」となると、殆どの場合その分野に才能がある人のみが実現可能な言葉となる。人生においてその見極めは重要だ。極端な例を言えば、足が遅い人がどんなに努力をし訓練をしても、100mを10秒切ることは出来ないだろう。妙な平等教育がこの辺りの価値観をおかしくしているが、人は才能において決して平等ではない。
僕はゴルフが大好きでゴルフだったら何時間でも続けられるし、暇な時はたいてい打放しへ行っている。スポーツはやるのはゴルフ、見るのはサッカーと決めているが、実はPGAツアーなども結構見ていてゴルフに対する情熱は人一倍である。しかし、十数年やっていても一向に上手くならない。90を切る切らないでずっと喜んだり落ち込んだりを繰り返している。シングルになる人は割と短期間でなるものだ。当たり前のことだが、情熱や愛情も、才能の十分条件かもしれないが必要条件ではないのだ。
このことを逆に考えると、好きではないけどやれば上手くなるものだってあるかもしれない。その場合は上手くいくからきっと好きになっていくのだろう。例えば僕は子供が苦手だからやろうと思わないが、ひょっとしたら保父さん向いていたかもしれないし、もしかしたらカーリングなどにも才能があったか知れない。
もっともある分野に才能がある人間は、自分にはどのような才能がありどのような才能が欠けているかを知り尽くしていて、それが個人的努力でどうこうできる水準の問題ではないということも理解しているはずだから、このようなタラレバなどはナンセンスかもしれないが。
澤選手がみせたW杯アメリカ戦での同点シュートや、バルセロナのメッシ選手のプレーを見て才能を感じない人はいないと思うが、小さな事でも他人に対し才能を感じる事がある。僕はメモを取るのが苦手で、自分のメモは何を書いてあるのか自分でも分からないほどだが、即興で描いたとは思えないほどキチンとしたメモをとれる人がいる。こういう人は僕からみればメモを取る才能がある人だ。
小さい部分の得意を才能とするなら、メモは駄目だが僕にも結構色々な才能がある。例えば、僕は足の指が異常に器用で、卓上から鉛筆、消しゴム、定規などを落としたとき、わざわざかがまなくとも足の指で何でも拾うことが出来る。つま楊枝すら拾える。さらに、これは皆に驚かれるが、足の指でチン△×を◆△○※することも可能なのだ。(とても恥ずかしくて書けない。)
しかし、そのような事を出来る人は探せば結構いるはずで、足の指を使ってピアノでリストなどを弾けるくらいにならないと「才能がある」と胸を張ることは出来ないだろう。
何だかんだいっても才能とは持って生まれた何かであることは間違いないと思うが、その人固有の得意なものというものは誰にでも存在しているはずで、それを「才能」と胸を張って呼ぶにはその大きさと稀さが必要なのだ。だから、メジャーなもの(絵とか音楽とかスポーツなど)が駄目でも珍しい小さな得意を見出し、その伸びしろを発見できれば、それが才能とよばれるものに変わる可能性は十分あると思う。誰でも小粒な澤選手になれるかも、というわけだ。
ただし、あまり突飛な事に努力をしていると変人に思われるから注意が必要ではあるが…。
【文:珍蔵】
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Comment
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
Re: タイトルなし
> とても魅力的な記事でした!!
> また遊びに来ます!!
> ありがとうございます。。
ありがとうございます。
宜しくお願いします。
【管理人】
> また遊びに来ます!!
> ありがとうございます。。
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宜しくお願いします。
【管理人】
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Author:urimasa
珍蔵:設計事務所経営。建築家。
サッカーファン。
(特にバルセロナFC)
万吉:元ジャーナリスト。投資家。
野球ファン。
(特に日ハムファイターズ)
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